昭和五十六年四月二十九日 朝の御理解


御理解第六十五節「日柄方位は観るに及ばぬ。普請作事は使い勝手のよいのが吉い家相じゃ。吉い日柄と言うは空に雲のないほんぞら温い自分に都合のよい日が吉い日柄じゃ。如何に暦を見て天赦日じゃというても雨風が強うては今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思へ。」


 昨日は親教会の春大祭でここからも沢山参拝を頂きました。帰りまして竹葉会でしたから、竹葉会の皆さんみんな御参拝になっておられましたから、あちらの大祭又はお話しを頂いてのまあそれぞれの感想を聞かせてもらったんですけれども、兎に角生きとし生ける者、いわゆる神様のおかげでお生かしのおかげを頂いておるという事が分かったら、昨日はあのようにお天気がよございましたから、そのお天気がよいからお参りが出来んといったような事では神様に相すまんというようなお話しをシンにして前講の時もそうでしたが、後の講師の先生のお話しもそういう所に焦点を置いてのお話しだったらしいですね。
 確かにもうこうしてお生かしのおかげを頂いておるという事。その事が本当に真に有り難いと分からせて頂いたら、お道の信心の最高だと思うですね。分かっちゃおるけれどもそれが真でない証拠に、いわゆる今日はお百姓さんであるならばお参りするのにゃ勿体ない。お天気のよかりゃやっぱり外へ出た方がお天気がよいからお参りが出来んといったような事では出来ん。確かにそうであるけれども、生かされて生きておるその喜びをどの程度に分かっておるか。感じておるか。お道の信心はまあそれこそ天地書附にあると言われます。いわゆるおかげは和賀心にあると言われる。和賀心になろうなろうと言うて和賀心になれるもんじゃない。随分沢山なお話しをまあ私共が聞いてまいりましたけれども、その和賀心になる事の為の絶対の話を聞いた事がなかったですね。過去何十年の信心で。
 それを合楽では合楽理念に基づくと天地日月の心になる事肝要、なら天地日月の心と言うけれども、なら天の心、地の心に又は日月の心になる為には、どういう信心をしたら分かるかという事を容易う説くわけです。だから和賀心にある事だけは分かっておるけれども、なら和賀心になる手立てを説かなかった。成る程生きとし生けるの者の天地の御恩恵によるものだと話を聞けば一通りが分かるけれども、実感としてもう今日こうしてお生かしのおかげ頂いて居る。今日は教会の御大祭、何を置いてもさあいついつは又は今日は、一家中で参拝のおかげを頂くぞといわれるところまでの、云うならおかげ。そりゃ忙しもあろう。あれもこれもあるけれども、生かされて生きて居るという事を感じたらやっぱり御大祭の方を取らにゃいけないという話なんだけれども、ならそれを知ってはおるけれども実感していない。云うなら有り難さが伴わないという事なんです。兎に角分かっただけではなくて、それを自分の悟りまでも高めていく。そこに日々の実験実証があるのである。 その実験実証させて頂くから、成る程神様のおかげで生きて居るんだなあ、神様のおかげで一切があるんだという事を分からせて貰うから真に有り難しという心も生まれてくる。その真に有り難しという心は、和賀心でありおかげを又その真に有り難いという心で受け止める事が出来る。
 真に有り難しと思う心すぐに霊験のはじめと教えて居られます。信心とは結局心の成長を願う事である。おかげ頂くばかりが能ではない。
 教祖は話を聞くばかりではないとおっしゃっておる。話を聞いただけで分かっただけではおかげにはならんとおっしゃっとる。聞いた話が実験実証される。生活の中に生き生きと生きてくるところから、信心は容易いね。信心は楽しゅうして有り難い、愉快にすらなれるという合楽では説きます。そういうリズムにのった生き方から初めて神様のおかげというものを、云うならば知る事ではなくて悟る事になるのです。
 その悟りの境地が段々深く広くなっていくという事が、云うなら祈念詞の中にもありますように、甲斐ある生命に目覚めた時なんです。だからこの世に生を受けて居る、その生を受けた甲斐ある生命に目覚めるという事が信心なんです。
 ただ一生お願いしておかげを頂いたというのであって心は一つも成長していない。ただ今日当たりの御理解などのような所にです、日柄方位は観るに及ばずというようなまあ迷信的なもの、まあ云うならば何というでしょうかね、一つの運命論と云ったようなものから頂きますと、もう人間はどうしてもしょうはないもんだと運命のままにまあなっていくものだというふうにね。そこから開けてくる一つの悟りというようなものがあるけれども、これは実にまあ諦観なんですから、諦めそういうもんじゃなくて本当に甲斐ある生命に目覚めさせて頂いて、この世にある限りいよいよ真に有り難いという心を広げにも広げ、頂きにも頂いていく事を教えて頂くという事が信心の、云うならば願いでなからなければならない。昨日、竹葉会で或る方が発表しとられましたが、最近御主人の経営しとられます会社がまあ倒産寸前にあってなかなか給料も思うように貰えない。そん為に十円の金にも事欠くような事が或る。これがもし私が信心がなかったら今頃はどういう事になっておっただろうかという話をされました。そしてその本当に十円の金の有り難さというものが分からせて頂くと、もうしまえには笑いながら話しておられましたが、その神様の御演出というか、働きというか、もう本当に何ともいえんお働きの中に無い無いずくしの中から日々お繰り合わせを頂いていたら、本当に神様のお生かしのおかげを頂いておるという事を感じる。私は心は信心の定規じゃによってとおっしゃるその心が、信心の定規という事は表れてくるお陰による、云うならばなからなければ自分の心を確かめる事は出来ないというふうに説きます。
 自分だけ自分はよか信心しとるように思うとっておっても、それにおかげも感動も伴わないならばそれはおかしい。だから、例えば金銭に不自由しとる時が不自由せんですむごつなったら、大きなおかげを頂いたという事だけがおかげであり形であるのではなくて、昨日その方が発表なさるように、日々の金に十円の金にも事欠くような事があるけれども、事欠かない生活が出来ておるという事。本当に事欠くようにあって事欠かない、そして今まで云うなら乱費してきた事のお粗末御無礼をお詫びが出来たり、本当に神様の、神様が後になり先になりしておかげをお繰り合わせを下さる。
 中に或る方から、子供が僅かばかりの金を頂いたというて持って帰った。それをちょっとお母さんに貸して頂戴、今日はお茶がないから市場に行って買い物でもしようと思うてやらせて頂いた。そしたらそのお金ば払わねばならない人とその市場でぱったり合った。丁度握っておる金だけであった。だからおかげであのまあ安い物か何かよかつはなかろうかとぐるぐる廻っておる間にその方に合うてお払いが出来たと、まあ帰ってからは何にも買っては帰らなかったけれども、ならそれで立ち行かん事はなかったとそういうような、もう素晴らしいタイミングの中にね、そのおかげを頂いておる。
 そのタイミングはどこから生まれておるかというと、云うならばおるかというとお生かしのおかげを頂いておる。この世に生を受けた云うならば価値ある命に目覚めてきたからだと思うです。
 例えば成る程難儀をしとるけれども、それによって神様を生き生きと表して又頂く事が出来る。苦しいけれども有り難い。思いよるとおかしゅうなってくる位に有り難くなってくる。甲斐ある命に目覚めさせて頂いたのは何かというと天地日月の心であり、合楽理念である。だから心は信心の定規であると同時にそれには必ずおかげが伴うというそのおかげとは自分の心の上に素晴らしい有り難い感動が湧いてくるようなタイミングが生まれてくるような私はおかげ、そのおかげが出来ていく限りそれが力ともなり、云うなら思い方考え方が変わってくるです。例えばなら今まではやっぱり日柄も見た、方位も考えたんだけれども、教えを頂くとそうではない事が分かって、それをいよいよ実験する事によって、成る程そうであるなあ、日のお照らしなさる日に吉い凶い日はないという事が分かってくる。そういう体験が次々と積み重ねられていく所から生まれてくるタイミングです。
 神様のお繰り合わせ、そういう中にねおかげを頂いていくという事が、だから信心を甲斐ある生命に目覚めたというのですから、甲斐ある生命に目覚めたような生き方が果たして出来ておるかという事を分からなければならんと思います。
 信心のない人が困るという時にやっぱり自分も困っておったら、甲斐ある生命に目覚めとるとは言えない。信心のない人がまあ云うなら、つまらん迷信にこだわっておるのに、もう本当に信心頂いておればこういう時にはさっぱりした事である。一切がおかげとして頂けるという時に、初めて生まれてきた生命、云うならば甲斐ある生命に目覚めた時であると思います。ただお願いをしておかげを頂くから金光様というのじゃなくて、甲斐ある生命に目覚めさせてもらう、しかもそれが合楽理念に基づいていくと難儀であっても苦しかってもそこに思いよるとおかしゅうなる位に神様の働きの間違いなさに恐れ入った生活が出来るようになる。そういう力が積み重ねられに積み重ねられて、云うならば本当に金銭にも不自由せんで済むようになったというおかげは、これはもうおかげ頂けると確信が出来てくる。ただ今修行中であるとその修行中の間に、云うならば本当な事が本当な事として分かり、悟らせてもらい目覚めさしてもろうての生活、金光様の御信心を頂いてそういうね甲斐ある生命に目覚めさせて貰うというおかげの中に生活させて貰わなければ金光様の御信心を頂いておる値打ちはない。信心のない者が腹を立てる。信心のない者が心配をする事であったらいわゆる甲斐ある生命に目覚めとるとは言えない。
 ところがやがり腹が立ったり心配があるとするならば、まだまだ合楽理念の云うなら神髄に触れていない。云うなら本当な事がわかっちゃいるけれども行じてはいない。実験実証していないという事を悟らせてもろうて本気で教えに取り組む事の精進をなさして頂かなければならんと思います。 どうぞ。